少々時間が空いておりますが、先の北海道旅行でのこと②をば。
今回は主に古代から中世にかけての文化財と、近代に入ってからの家屋に多く触れさせていただいたことから、この更新では「運ぶためのもの」にフォーカスしております。
殊にアイヌ文化博物館様の丸木舟(チプ)は個人的に印象深く――まさか乗せて頂ける一艘が展示されているとは思ってもおりませんでした。
実際に失礼してみましたところ、立派な樹を少しずつ整えて制作されたのだろうな、と伺える作業痕が見受けられました。
「土器を調整したあとみたいに、ひとつひとつ削り出したあとがあるね」
拝観中にそんな言葉が思わず飛び出したのですが、その時はどのような制作風景の中で作り出されてきたのか、あまり想像が出来ずで。イナウも捧げられているのだし、またご縁あらばと一旦その場を離れたのです。
(言い訳をしますと、この日忙しい7歳を追いかけておりまして、あまりじっくり解説を拝読出来て無かったという…沈。)
ところが後日、似たような舟を削り出し工具を使って制作している様子を捉えた写真資料をを板橋区立郷土資料館様の「樺太紀行展」で拝観できまして。ああ、こうして作られていたもので、森の木から此処迄を丁寧に丁寧に作業してやっと形になるのだと、ようやくぱちっとしたイメージで腑に落ちた次第です。
(お友達とも話していたのですが、この展示の資料を集められた石田収蔵さん、洞察力が凄まじいうえに、写真の撮影もお上手です。学生時代に高頻度でお世話になっていた坪井将五郎翁のお弟子さんにあたるかただと伺うまで気づかなかったからかなり驚きました・爆。)
▲橇と舟。
どちらも、なにかを乗せて遠くへと運ぶ道具。道と、川や海と、どこかを辿っていくときに活躍する道具。
けれどそれらを駆使するのには、意思が不可欠なのでしょう。
何かを伝達する、運ぶための道具、というものは時代を追うごとにその性能が何かしら変化しているのだと私は思っています。
では、ものがあったとして、それを扱う側のひとは?その能力は?と問うならばどうだと思うのです。アプリにもデヴァイスにも順応している方は世に多く、例えば私の職場を訪れる学生さん方は偶々なのかとても礼儀正しくてしっかりなさっています(未来は宜しくお願いしますよと思うばかりです。)
ただし間もなく四十年が見えてくる自分に関しては怪しいが過ぎるとも思う次第でございまして。だからこそ、自身の性能(CPUスペックのがしっくりくるかな…?)なりに重要そうななにかしらを搭載して運び、繋げる意思を持ちたいと思いました。
hydronym
unofficial fan art for GOLDEN KAMUY+ historical essay or archives.
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