※この記事はブログ執筆に慣れていない筆者が、どんな調子で書けばいいのか迷って一旦二月末に投稿したものの、思い直して体裁を整えて+一点資料を加えて再投稿した記事ですm(__)m。
さしあたって、「である」、と「ですます」どっちがいいでしょうね…?
そういう調べものの末の文章をですます調で書くのにめっちゃ慣れておらんのだという筆者都合はさておきですね……ううーん。。。
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どうもご無沙汰しております。今日で2月が終わりですね…
目下のところ拙宅は子の就学での大波を前に、6月の原稿をなんとか進め始めております…今日の分は今から着手しますが、5月入稿を目標に今本編が始まった所です(3000字/計4万字予定、+大体かけてる1万字くらいの短編1本)。今回は本郷界隈+御徒町のあたりをメインに考えております故、またあれこれ本と資料が増えていたりしています。
そんな中ではございますが、前回2023年12月本拾遺録も残しておきたくて、撮影者不明・年代不明で参考文献に掲載できなかった戦前のものとおぼしき写真ポストカード類の画像数点と、実際に物語を書き出すときに視覚的な情報がきっかけになったことや、思考についてまとめております~。
ではまずはポストカード類からどうぞ▼▼▼
*撮影技術と写り込んだ建造物などの位置、恐山ホテルのキャプションに付された大湊要港部の文字などからおおよそ戦前のモノだろうと仮定。
*近世~近代を日頃多めに取り扱っている家人とも一緒にモノを眺めてもみたものの、どうにもこうにも本当に撮影者と年代は不明だったので、詳細ご存知の方がおられたらご教示くださいm(__)m
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恐らく興味関心が御有りの皆様には、現在の恐山境内に本堂や賽の河原の地蔵堂の中だけでなく、屋外の地獄とされるエリアや極楽浜のいたるところに「想う気持ち」が物理的に可視化されて存在しているということをご存知の方も少なくないことでしょう。
けれど、こういった令和のいま見受けられる供養のかたちーー「誰かを想って、そのすがた形を投影した対象をこのお山に奉納する」という行為はどういう経緯で盛んになったのでしょうか。或いは、いつ始まったのでしょうか。
いまでこそプラスチックの風車や小さなお地蔵様などをお見かけするものの、戦前には軍事的な理由で統制があった筈であり、尚且つ全国向けのテレビ放送が1960年台頃から入る以前――要は近世末期の信仰とは少々様子が異なっているといって差し支えないという研究と、資料がちらほらあるのです。
結論から言えば明確な時期の特定には至りませんでしたが、可能な範囲で辿ってみると…
1:まず昭和40年台の境内、特に硫黄ガスが噴き出ている地獄とされるエリアの写真を数枚見るに、目に付くのは積み石。現代のようなミニサイズ、ないし一般家庭の墓地に立てられている水子供養のお地蔵様が山内にぽつぽつと…という光景は見受けられませんでした(※1)。
2:またその少し前の戦前期の様子をいくつか当たっても、同様(※2)。
で、寧ろ各デジタルアーカイブスや絵葉書、寺院公式の声明が載ってるものにはなにか…とあちこちを見てみるも、特にはみあたらない。奈良の某生k遊園地みたいなもの想定したのでしょうか、観光地化を推し進めたい一部の識者を相手に、「人手がない」と戦前当時のご住職が仰っていた記述があるのも納得の記録の少なさ。勿論正式に寺院の方にお尋ねすれば、もっと年代を特定出来る記録なり資料があるかもしれないけれど、拙めは一般人故………
3:では…と、参考にさせて頂いたのが、あの時期についての津軽地方の地蔵信仰の研究(※3)。曰く、戦後約十年が経った頃に戦没者と子どもの供養が拡がったということが碑銘の統計調査で浮かび上がってくるとのことでした。また同じく津軽の禅林街で具体的に個人の弔いの為の地蔵像が増加した時期があったとの石材店の方の証言記録も。
もうひとつ副次的な資料として触ってみたのが、昭和初期だったかな…夏の地蔵堂供養祭についての記事でした。こちらは青森県内に幾つか存在している賽の河原での夜祭りの様子で、供養…というよりも、死者と生者が入り混じって楽しく歌って踊って過ごせる日で、電車も満員御礼…というしずかな供養のイメージとは繋がりにくいもの。という流れと、少なくとも現代に定着していて、一般的に知られている供養のすがたとは一線を画す実態や、思考があったのではという印象を受けました。
一方で、そういう経緯を資料に触れているうちに、イエや国ではない、それぞれの人生を紡いでいくうえでの繊細な気持ちや繋がりを認識し、言葉で表現出来るという心理的な段階及ぶ方、ないしは環境を得た方が増えたのが戦後のこの時期だったのかもしれない。地元の方が地蔵講で参られる記録も見かけたし、お山にももしかすると公の記録には残ってない何かがあっても不思議ではないかもしれない……と。
書いていたものは拙い作品ではありますが、あのふたりの在り方を考える時に思い重ねて綴っていたのでした。
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追補資料。
「枕頭山水」12月に会場卓にもひっそり置かせて頂いてた本で、国会図書館アーカイブスにも登録があります。
せっかくだから(※このときソロ外泊するのは約7年ぶり。)大湊線に揺られながら読んでみようと……陸奥湾を眺めたり、文章の中に出てくる様子と照らし合わせたり出来て、持ってきてとても良かったと思いました。
2024年3月8日注釈追加★★★
*1:個人持ち込みと思われる仏像、などの意。「あのころの道南・下北を旅する(新函館ライブラリ/星野勳氏)」などでも1968年の境内の様子(それも大祭期間中だと思われる賑わいのなか)が伺えますが、こちらでも目立ったもの、あるいは現代と近い形の小さな仏像類は見つけられず。逆にイタコマチは形成されていました。
また余談ですが、この時期には全国でテレビが普及し始めており、下北地方についても報道がなされていたアーカイブスがちらほら残ってます。
*2:荒写真館様御撮影の戦前撮影と思しきポストカード(こちらは大湊要港部ご許可、寺務所発行となっています。)にも見受けられず。
大道先生の「霊場恐山の近代化 : 大正期の「観光化」をめぐって(2016)」という論文にあるように、記録を後世に…といっても、人手が足らなかったり、或いは機密の都合で許可が下りないから記録が…という事情がたくさんあったのだろうと感じざるを得ません。個人撮影のものをたくさん集積できれば、どの時期から持込が増えたのか言及することも可能でしょうが…
*3:「青森県津軽地方における地蔵信仰の変容について(2012)」小山先生
お地蔵さんを形態分類し、碑銘から年代情報を集積されてます。津軽の方でイタコさんに言われて、花嫁人形ないし絵馬を…という記述もあったかな…と思いますが、その類もお山に限定した記録は見つけられず。
hydronym
unofficial fan art for GOLDEN KAMUY+ historical essay or archives.
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